
みなさんは『夜と霧』読んだことありますか?
世界的名著である本作、
発行部数は、英語版だけでも900万部に及び、1991年のアメリカ議会図書館の調査で「私の人生に最も影響を与えた本」の9位になっています。
また、日本語を含め17カ国語に翻訳されており、読売新聞による「読者の選ぶ21世紀に伝えるあの一冊」のアンケート調査でも、世界の名著部門の第3位となりました。
僕は先日『夜と霧』を読んだのですが、その感想を自分なりに綴っていきたいと思います。
あらすじ
簡単に著者についてと、あらすじを紹介します。
著者
著者はヴィクトール・E・フランクル(1905~1997)
オーストリア出身の精神科医・心理学者で、ウィーン大学医学部精神科の教授も務めた優秀な人物であったが、1942年にユダヤ人であることが理由で強制収容所に入れられてしまう。
強制収容所での過酷な体験を元にして『夜と霧』を執筆する。
※原題は「心理学者、強制収容所を体験する」で日本語訳が出版されるときに『夜と霧』というタイトルがついた。
要約
「心理学者、強制収容所を体験する」。
これは事実の報告ではない。体験記だ。
生身の体験者の立場に立って『内側からみた』強制収容所を心理学的観点からみて考察し分析する。
強制収容所で自分や他の人々を観察してえたおびただしい資料、そこでの体験をまず整理し、大まかに分類すると、収容所生活への被収容者の心の反応は三段階に分けられる。
- 第一段階 収容
- 第二段階 収容所生活
- 第三段階 収容所から解放されて
第一段階 収容
まず初めにあるのはショックだった。
どこに連れていかれるかも分からず、長い移送の道のりをギュウギュウに詰められた列車の中で過ごすことになる。そこでの不安と緊張からくる恐怖に誰もが心臓が止まる思いがした。
恩赦妄想も多くの人間にみられた。土壇場で僕たちは救われるという空想を始めるのだ。
その空想が次々と瓦解していく中でやけくそのユーモアに走るものも見られた。
また、あまりに世界から切り離され現実味がないので、冷淡な好奇心が芽生えた。
さまざまな場面で、魂を引っ込め、なんとか無事やり過ごそうとする傍観と受身の気分が支配した。
第二段階 収容所生活
さまざまな変化や反応が見受けられた。
大多数はナチス親衛隊やカポーの残虐な仕打ちに見慣れてしまい、人が死ぬことを当たり前のよう死ぬことに抵抗を覚えなかった。
そんな中でも、冗談を言い合い励ましあったりする行動、他人に対する親切などの反応も見受けられた。
多くの人間が節操を失い、堕落することにつながった。
感情の消滅を克服し、最後に残された『精神の自由』を保つ人間の存在も見受けられた。
そんな人は一握りであったにせよ、人は強制収容所にいれて全てを奪うことはできるが、たった一つ、与えられた環境でどうふるまうかという、人間としての最後の自由は奪えない、実際にそのような例があったということを証明できた。
第三段階 収容所から解放されて
解放されても途端に喜びが爆発することはなかった。
強度の『離人症』のような症状が見受けられた。すべての現実は不確かで、ただの夢のように感じられる。
解放後、何日かたったある日、広大な空を眺めているとき、ようやく自由を実感し、一歩一歩と新しい人生に踏み込んでいった。
あなたは再び人間になったのだ。
感想
正直、最初は僕が期待したような本ではなかった。
僕は勝手に「アウシュビッツ収容所での残虐な体験」が書かれている暴露本のようなドキュメント小説と認識をしていた。だから、怖いもの見たさからくる好奇心でこの本を手に取った。
世間で叫ばれているような人体実験や拷問のようなことは書かれておらず、正直退屈だと思い読むのをやめようと思った。
しかしこれはドキュメント小説ではなく、心理学的分析を交えた体験記なのだ。
冒頭に書かれている通り、壮大な地獄絵図は書かれておらず、収容所内からみたおびただしい小さな苦しみの描写であった。具体的に言うと、目を背けたくなるような人体実験ではなく、理不尽な暴力や不衛生で窮屈な生活環境など。
後半にひっそりとかかれていた『生きる意味への問い』には考えさせられるものがあり、本を読み進めてよかったと思わせてくれた。
フランクルは次のようにも述べていた。
人間はどのような状況でも、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、何らかの決断を下せる
確かに、自分が同ふるまうかは自分が決定を下し、どんな人間になるかは自分自身が決めることなのだ。
環境に文句を垂れても仕方がないのだ。
たしかに理不尽な状況に追い込まれているのは自分のせいだけじゃない。
ただ、立ち直らない、行動を起こそうとしないのは自分のせいではないだろうか?
生きる意味
よく私たちは生きる意味について問う。

しかし、フランクルは「生きる意味を問う」のをいい加減やめて、「わたしたち自身が問いの前に立っている」ことを思い知るべきであると、語っている。
生きることは日々、時々刻々問いかけてくる。わたしたちはその問いの答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。
生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
この後に、生きる意味への問いは一般論で語ることはできないといっているものの、生きる意味は具体的なものであるとしていた。
生きることに対して主体的になるべきという主張が、この本でもっとも僕の心に刺さった。
生きることの意味を問うても仕方がない、存在価値を自分の行動で証明するべきなのだ。
苦しみも生きることの一環として受け止めて、生に対して主体的な向き合い方をする必要があるだろう。
おわりに
是非とも読んでほしい。
ここに書ききらなかった、心理学的分析や物事の善と悪、今まで見たことのない人間が描かれていました。
本文に書かれていましたが、
強制収容所の人間を精神的にしっかりさせるためには、未来の目的を見つめさせること、つまり、人生が自分を待っている、誰かが自分を待っていると、つねに思い出させることが重要だった。
現代社会に収容されている我々にも通じる節があるのではないでしょうか?
それではまた次回も、何卒。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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